ここ2年間で感じてた違和感に終止符を打ちました。
人間の性(さが)がそうさせる
みなさん、注射の経験ありますか?
インフルエンザの予防接種とかのアレです。
刺されるとチクっとしますよね。
ずっと刺されっぱなしだと嫌でしょう?
あと、棘とか魚の小骨も刺さると痛いので取りません?
そう、刺さったものは体外に排除しようとするのが人間、もっと言えば生き物だと。
日本人のM化
日本に居たとき違和感を覚えてたのが「○○さんの言葉が心に刺さった」「心に刺さるメッセージ」等という表現。
なんか、しっくりこなかったんですよ。
比較的新しいことをしようとしてる人たちの間で使われていた気もしますが、なんか心に響かない。
そう、心に響かないんです。
彼ら・彼女らがやろうとしていることは理解できるし意義も感じることができる。
でも、その動機を聞いたとき「○○さんの言葉が心に刺さった」て言われると、フーンて冷めちゃう自分が居ました。
言葉は常に変化するものなので、新しい表現かな?違和感を感じるのは自分がオッサン化しただけかな?とか思ってましたが、やっぱりちょっと違うなあ、と。
言葉が心に突き刺さるのは自分の痛いところを突かれたときの反応で、共感したときの反応は「響く」とか「沁みる」もんだろうと。
もちろん痛いところを突かれて動き出すキッカケになった、というなら分かります。
痛みを取り除く過程で内省したり、自分の考えを明確化できたりしますからね。
しかし、今も心に残る言葉やメッセージに対して「刺さった」という表現は、自戒する為には有用でも拠り所にするにはあまりに儚いでしょう。
だいたい、心に刺さる(突き刺さる)言葉が多いこと自体、日本人の心が弱っているんじゃないか?と。
もしくはM(マゾ)属性の日本人が増えたか、と。
「心に刺さる言葉」という言葉がバズワードであるとも言えそうですが、他人の言葉を自己肯定の文脈で使う場合は「刺さる」より「響く」「沁みる」ものなんです。
“やさしい”ドミニカ人
環境教育に関する活動の予定を入れていても、どんどんキャンセルされる事態が続き、ふと「本当は環境教育なんて必要とされてないんじゃないか?」と思うことがしばらく続きました。
で、今日の朝、「オレはアルタミラ市役所の役に立ってないと思う」と言うとカウンターパートが血相を変えてその場で市長に電話。
午後には市長宅に行って「シュンのしたいことを言いなさい」と。
(ぼくがしたいことは「あなた達のしたいこと」を手伝うことです)
ドミニカ人は自分大好きで自己否定などしません。肯定ばっかり。
なので、ぼくが自己否定するような発言をしたことはよほど彼女の心に突き刺さったらしく、すぐに行動を起こしました。
これで彼女の心に突き刺さった言葉の原因は取り除かれたわけです。
刺さる言葉に対する日本人とドミニカ人の反応の差。
でも、ぼくがしたいことを「やる」と約束されましたが、そのあと「予定は未定」ってカウンターパートに言われました。
刺さった言葉は取り除かれても、心に残る(響く・沁みる)言葉は伝えられてないんです。
刺さる言葉は一過性。響く言葉は持続性。
ドミニカ人にはそう言える。
自己肯定力が高いからこそ他人にも優しいけど、自分の行動を全てを肯定しちゃうからベターよりイージー(易しい)を選んじゃう。
だって、環境保護って手間かかるし。
過去記事:早いぞ!ドミニカ人
言葉の不自由な外国人が来て、普段の仕事の合間に相手しなきゃいけない負担も分かります。
教えることより学ばされることが多いなかで「手伝う」なんて傲慢か?
それでも自己肯定してあがいて、ドミニカ人の心に残る環境教育を、と思うばかりです。
刺さる言葉より、響く言葉を。